不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122)) |
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最近の社会学系の本には同じことしか書いてないですね。 そろそろ文体の方法論とか《顔》の整形論とか、そういうワンクラスアップした段階で論じるべきじゃないでしょうか。 幸いにも未だその領野はすべて開拓し尽くされてはいないと思います。 この人の文体はぜんぜん魅力的じゃなかったです。 サラリーマンとかのほうがそういうの得意なくらいじゃないでしょうか。 理想、夢、虚構。 現実の反対語としてのこれら三者に従って、日本の戦後は概ね三つの時代へと区分されうる、とは 社会学者見田宗介の手によるあまりに有名なテーゼ。 こうした議論を引き継ぎつつ、本書の著者である大沢は1995年のオウム真理教事件等を契機に、 虚構の時代の終焉を見出す。 本書では、見田の区分への再検討が重ねられた上で、それらに代わる新たなる時代としての 「不可能性の時代」の到来とその諸相が説かれる。 「近代」の終わり≒「第三者の審級」の困難、不可能など首肯させられる点も多々ありはするものの、 総じて見れば、論理の粗がどうにも気になって仕方のない一冊。 「……なのではないか」というかたちで投げ出された仮説とも呼称し難い思いつきと、事件や小説、 映画など恣意的もはなはだしいサンプリングに従った論証とも認め難い自説の展開。 反証とツッコミだけでいくらでも本が仕上がりそうな、そんな一冊。 あからさまに破綻しているのは「酒鬼薔薇聖斗」の手紙、「透明な存在」をめぐる解釈。 レヴィナスを引用しつつ、大沢はここに自己を覗き見る他者のまなざしの不在を感知し、 「〈不可能性〉とは〈他者〉のことではないか」と結論づける。 違う。酒鬼薔薇において欠如しているのは覗き見られる自己そのもの。アルトゥール・ランボーの この上なく完全なことばに倣えば〈Je est un autre〉であることの狂おしさ、そのことが 「透明な存在」との表現に従って語られる。殺人を以て少年Aは己が暴力主体たるその可能性、 〈Moi〉たる可能性、自己同一の可能性に賭したのである。 実に、大沢の言う「偶有性」は彼の用語法における他者へと求められるべきではなく、 まず何にも先んじて、〈Je〉という名の他者へと向けられねばならない。 そしてそもそも他者の偶有性など問題になりようもない、レヴィナスの戯言に惑わされるなど ただの徒労、端からそんなことは自明に過ぎて論じる必要すらないのだから。 他者の偶有性に気づかずにあり続ける術、すなわち「透明な存在」が「透明」であるという この当たり前を閑却する術、それはただひとつ、バカであり続けること。 酒鬼薔薇の不幸、すなわち彼が悧巧に過ぎたこと、彼が非凡に過ぎたこと。 フロイトが象徴的に表現して見せたこの根源的な不可能性に気づいてしまったこと、この事態を 解決することが不可能であることこそが本来は問題とされるべきであったのだが、本書はあいにく その射程にない。 テーマ設定そのものが誤っている以上、さらなる論評には何らの意味も見出されえない。 要約すればおそらく4,50ページ以内で終わる内容をどうでもいい引用をして膨らませたもの。ひたすらポストモダンの典型のような口吻で呆れた引用を連発して言葉遊びを興ずる。最初から最後まで説得力ある論旨が展開されるわけでもない。何だろうこれは。これほど面白くない新書は初めて出会った。当然だが買う必要なし。借りる必要もなし。時間の無駄。有閑な高等底辺遊民にも不要。 そういえば著者は東洋経済でも連載しており社会を切っていた。若者の労働の現状を真木悠介氏の疎外論で読み解く、なんてのをやっていたが最高に説得力ゼロだった。まさに「書生が社会を蝶々する」という有様。同じ京都大学でも佐伯啓思とは雲泥の差だと思う。 概して面白く読めたが その「面白さ」はあくまで著者が本書で語る「物語」の面白さであり それが本当なのかどうかについては 留保が必要ではないかと感じた。 例えば著者は「酒鬼薔薇聖斗事件」「地下鉄サリン事件」などに 時代を読み込もうとしている。 著者が読み込んだ「物語」は読んでいて説得力には満ちている。しかし一方 それらの事件が 果たして時代を代表するような出来事であったかどうかに関しては 同時代に生きた僕としては説得されなかった。 事件にまとわりつく「記号」を分析する知性には感心しても その記号は そもそも特殊ではないかという印象が最後まで残った。 ましてや松本清張のサスペンス小説「砂の器」を取り上げ 主人公の本浦を 「本裏」=「裏日本」と読み込んでしまう著者の「深読み」を考えてしまうと それ以外の著者の読み込みも もしかしたら同レベルに「面白く」かつ「深読み」ではないかと感じてしまうのだ。 その上でオタクを巡って 現代を読み込む手法に関しては 「そもそもオタクがこの時代を切りとる正しい切り口なのか」という前提を押えるという手続きに欠けている気がした。 現代の日本社会を分析するにあたり オタクという「特殊な記号」が どれほど有効なのかが僕には説得的ではなかった。 「オタク文化を読み解くことの面白さ」は本書でも十分に感じさせられるが それが 現代の日本のすべてとは思えない。今の日本を高齢化社会だと考えると その高齢者たちが オタクだとも思えず 従い 日本のある一定以上の人たちを外した日本論の有効性が ぴんとこないのだ。その意味でも 前記の手続きがほしいと思った。 著者の博覧強記と 語り部としての才気はすさまじい。それがある意味で裏目に出ている気もした次第だ。繰り返すが 大変面白い本ではあるのだ。 私がこの著者の作品を読んだのは「自由の条件」についで本書が2冊目です。著者の問題意識は本書においてより鮮明に表現されているように思います。私になりに思い切って要約すれば、著者は次のようなことを言っているのではないでしょうか。 「人々は偶有性の隠蔽としての第三者の審級に捕らわれている。しかし現代では第三者の審級の不在に耐えなければならない。直接的な他者との関係こそがその可能性を開くものである」 著者は戦後を3つの時代に区分し、そこでの第三者の審級の変化を追っていきます。そして現在は、暴力的な現実に逃避することで第三者の審級が立ち現れることを期待するような「不可能性の時代」に至ったといいます。そこから逃れるには第三者の審級の不在に耐えるしかありません。「自由の条件」では、死んだのは他者ではなく自分だったかもしれないという偶有性にその可能性を見ていました。本書では、愛が憎しみと表裏一体であることが閉じた共同体を開くことにその可能性を見ています。 私は小学の4年生のころ、なぜボクは自分であって他人ではなかったのか、なぜボクは日本人として自分のこの両親のもとに生まれたのか、という疑問に深く捕らわれたことがあります。子供でも疑問に思うことなので、たぶんそれは人間にとって基本的な疑問だろうと思います。それは著者の言葉でいえば、自身の存在の偶有性に気づいたということです。人間はそれに耐えられなくて、規範の妥当性を担保する超越的な他者である第三者の審級を要請してしまうのでしょう。 著者の論理展開はしばしばアクロバットのように目まぐるしく展開します。しかし著者の論理はよく考えれば納得できるもので、人々の実感に裏付けられていると思います。私は次は同じ著者の「ナショナリズムの由来」を読んでみようと思います。 不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))を楽天で検索 |