漱石母に愛されなかった子 (岩波新書 新赤版 1129)

漱石母に愛されなかった子 (岩波新書 新赤版 1129)

売れ筋ランキング漱石母に愛されなかった子 (岩波新書 新赤版 1129)  
漱石母に愛されなかった子 (岩波新書 新赤版 1129)

漱石母に愛されなかった子 (岩波新書 新赤版 1129)


価格:¥ 777(税込)
岩波書店  (2008-04)
/三浦 雅士/
新書 248ページ
売れ筋ランキング:8779
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私は漱石の作品がとても好きだ。何故なら男女の三角関係を通して突き放したような冷静な人間観察は現代においても全く色あせることのない魅力と深みを持っている。
私はまずこの本の題名が気になって本を手に取った。私は漱石が生まれたばかりの時に里子に出され、あまり裕福とは言えない幼少時代を送っていたことを知っていたが、それを題材に作品を語る本は今まで(私の中では)なかった。
この本のもっとも興味深い一節は『自殺をするとき自分を殺すのではない。殺すことは能動的だからだ。そして自殺者が殺すのは社会である』
つまり著者が言いたいことは自分という精神は消して死ぬことがないことなのである。
私は彼岸過迄からは漱石はただ単に他人の視点で書かれているとは思わない。漱石は一度血を吐いて『死んだ』体験から自分と自分の精神が離れるという事が出来るようになったのである。
母に愛されなかったこと、一度『死んだ』こと。
漱石はその経験から自己の精神を上の立場へもっていき、自分たちはいかに空虚で利己な存在ということを伝えたかったのかもしれない。
 「青春の終焉」「出生の秘密」の、その先の敷衍を、漱石に絞ってやるなんてな。自分ってのがもともと他者から出来上がっているっていうね。自分にとって最初の他人である母親から認められること、自分が母親の身になって自分を認めることが自分が自分であることの証になるっていう。

 自分について考えることは人間について考えることです。なぜなら、人間はすべて自分という仕組みを持っているからだ。誰もが私なのです。人間ひとりひとりは有限だが、この自分という仕組み、私という仕組みは無限である。

 この、“自分という仕組み”あるいは“私という現象”って捉え方こそが、人間の可能性だよね。

 他者に対して、そしてより多く自分自身に対して、自分をどのようなものであると認めさせたいか、そういう人間の心理そのものが人間関係すなわち社会の所産...

 母に愛されなかった子という主題は、かつて公共のものとしてあった...

 つまり、「公こそ私であって私こそ公」っていう公私の逆説、これこそが人間の根源なんだよね。ただ三浦雅士を自分なりに読み継いで来たものとしては、それってそうだよね、って感じで、目からウロコって感じではない。逆に、漱石の小説に出てくる登場人物たちの「じゃあ、消えてやるよ」といったわかりやすすぎる態度や、愛されていることに気づかない鈍感さはウンザリっていうか、勝手にどうぞ!って思っちゃうんだよな。もちろん、“自分という仕組み”“私という現象”っていうイコール文学みたいなところをガッツリ押さえていたのはすごいんだけど、やっぱ、それ以降、今に至る文学は、それなりに、同じ主題でも微分積分してるっていうか、ストレートじゃないっていうか、手を変え品を変えしなきゃ漱石と一緒になっちゃうっていうね。
 今回も楽しませてはもらったけど、正直、「青春の終焉」「出生の秘密」ほどの衝撃はなかったかも。
『出生の秘密』後半部の繰り返しかと思って読んだが、まったく違う。くどさやダルさは消え、噛んで含めるようにリーダブル、しかも深く広い。丸谷才一さながらの「ですます」「である」文体の混淆という異様さに当初驚くが、考えてみれば三浦は、広く一般に読んでほしいと強く願うときは「ですます」を用いるのであった。芸術作品全般を根底的に規制する「心の癖」が母子関係に由来すること、しかも漱石自身はそのことに自覚的であったこと、「則天去私」の意味の転倒の指摘には刮目させられる。文中、漱石が他者に「完璧に乗り移って」描写する夫婦間の対話、三つ巴の会話が讃えられるが、本書では三浦も、漱石と時を超えて一体化している。「私という現象」を二十代から一貫して追い求め続けている三浦にとって漱石は格好の題材であっただろう。著者にとって初の新書であり、その意味で「三浦雅士入門」としてまさにベストの一冊。
漱石の批評は数えきれないほどありますが、新書でこれほど深く独創的に論じたものはありません。「吾輩は猫である」から「明暗」までを漱石の苦悩の原点であった「母に愛されなかった子」という視点で分析した評論です。解りやすい文章で難解な漱石の苦悩=心の癖を明らかにしています。漱石と言えば人間のエゴイズムを追求した作家であるような批評が一般ですが、これまで私はどうも納得がいかない気がしていました。三浦雅士の漱石論はユニークですが平明で深くかつ説得力があります。私にはこれまでの漱石論の違和感がありませんでした。それ以上に素晴らしいと思ったのは批評を通して見事に自己を表現していることです。これを読むとまた漱石が読みたくなります。
漱石は自分の母親に愛されなかった。少なくとも愛されていなかったのではないかという疑念とともに生き続け、その疑念から生まれた「心の癖」に導かれるかたちで彼の小説を書いた。そのような仮説にもとづき漱石の作品を丁寧に再読し、新たな夏目漱石像を提示する意欲的な著作である。
母が、また妻をはじめとする女たちが、あるいは世間が、自分を愛してくれない、じゃあ、消えてやるよ、という論理の力が漱石の全作品を動かしている。たとえば『坊ちゃん』ではそのすねっぷりが素直に表現され、『虞美人草』では愛してくれぬ相手への苛烈な復讐が行われ、『それから』では愛されないのではなく愛されていることに気づかなかったのではないかという問いが発生し、そして『心』でそれまでの問題意識が集大成される。さらに『道草』で独り自己の心の癖を客観的に考察することを決意し、そこで愛することの背後にある認めることの意義に気づいたあと、『明暗』においてあらゆる人間が織り成す自己承認の闘争の記述と分析が展開されることになる。その漱石文学の進化の過程が、本書では実に鮮やかに論じられている。
本書のテーマ自体は、前作『出生の秘密』においてヘーゲル弁証法との関連から試論的に検討されていたものだが、今回はそのテーマがより明快に整理され、論点が広がり深まっている。またこの本では、著者の終生の課題である「自分」をめぐる思想がいたるところで集約的に提示されており、「三浦雅士入門」という趣もある。自分を他人の目で見ることで自分が生まれるとか、自分を考えることは自殺を考えることでもあるとか、誰もが自分であるのだから自分に対する意識は人類に対する意識であるとか、孤独においてこそ自分は世界全体に向き合うとか、漱石文学を解剖するにあたり著者の好む論理が巧みに応用されているわけだ。
とはいえ、この本は、漱石にも三浦雅士にもあまり関心がなくても、十分におもしろく読めるはずである。母をはじめ、自分にとって重要な他者に愛されない、認められない、少なくともそういう疑念を持ってしまう、それゆえ他人を傷つけ、傷ついてしまう。誰もがこうした不幸を繰り返してしまうのだから、その不幸の構造を論じた本書は、誰にとっても身につまされるところがあるわけだ。


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