逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

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逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)


価格:¥ 1,995(税込)
平凡社  (2005-09)
/渡辺 京二/
単行本(ソフトカバー) 604ページ
売れ筋ランキング:4594
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古い日本を目撃した多くの外国人の証言に触れられると思い読んでみた。期待以上の成果に驚いている。今や暗い江戸の農民のイメージはあとかたもなく、かわりに陽気で人好きのする幸福そうな人々が美しい自然の中でおおらかに暮らしている様がいきいきと浮かんでくる。分厚い評論なのに、第一章がやや難解だっただけで、あとはすっかり引き込まれてしまった。渡辺氏の美しい文章で滅亡した古い日本の文明を追体験できた事は幸せだった。
私たちが今伝統とよんでいる茶の湯や生け花などの事象は、「若き日本」を構成する「新たな寄木細工の一部分として、現代文明的な意味関連のうちに存在せしめられているに過ぎない」。「死んだのは文明であり、それが培った心性である。民族の特性は新たな文明の装いをつけて性懲りもなく再現するが、いったん死に絶えた心性はふたたび戻っては来ない。たとえば昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性とともに、永久に消え去ったのである」。渡辺氏はこうした表現で、現代の日本の文明が、近代以前の文明の変容ではなく、滅亡の後に生まれたものだと主張する。古い日本の扼殺と葬送の上に近代のドラマは始まった。これは歴史の必然である。近代化は独立と繁栄を支えた。現代の日本人は先進国の一員であり、豊かさと便利さと自由を手にしたはずなのに、古い文明に生きた江戸の人々ほど幸福でないのはどうしたことだろうか。
当時日本の庶民世界に惚れ込んだ西洋人たちは、西欧的な心の垣根の高さに疲れていた。「確乎たる個の自覚を抱くことがそれほどよいことであったか」、幸福とは時に進歩とは逆の方向にあるのかもしれない。心の垣根を高くした私たちは、かつての日本文明に触れることで戻れない道に置いて来た忘れ物を見つけられるのかもしれない。
ある種センチメンタルというかポエティックというか小説のようなタイトルの書物だけど、どっこい骨太な600ページにもおよぶ近代批判の思想エッセイ。

といってもご心配なく。

難しい思想をこねくりまわすポストモダンの思想書とはまったくおもむきを異にする、具体的に美しい世界が目に見えるように展開していく快感の書です♪

日本人であることのDNAがざわめきます。

ここで展開される情報の海は、決して回顧趣味的なノスタルジーに浸って癒される、という類のものではありません。現代に生きるボクらのスピリットが触発され未来へと放たれる力をもった、超具体的な情報の集積であると断言しておきましょう。

歴史を学ぶとはいたずらに過去を顧みることではありません。

歴史とは ”いま” を生きる意識レベルに応じ写し出される ”鏡” そのものであり、その意味では通時的な ”かつて” ではなく共時的な ”いま” でしかないわけです。

そういう意識でもって読んで欲しい本です。

江戸末期から明治にかけての激動期に失われたものの本質がこのように語られ、そしてそのことを素直に学べるようになったということは、ようやくボクらの精神が近現代社会という重いマトリクスから抜け出したことの証しなわけです。

先ずは日本人から。

そう、”ポストモダン”というのは決してヨーロッパの特権的難解思想の果てにあるモノなんぞではなくて、そもそも日本人のDNAにこそあったわけです。
幕末・明治期の欧米人による日本見聞録の多くに、日本人は社交的で機嫌よく少々子どもっぽいが幸せそうに見えると著されているという。いずれも現在の日本人とは正反対に思えるくらい意外なものだ。そして欧米人の数ある驚きのなかでも最大のものは、物質的には最低限しか所有していないように見える一般庶民が、簡素ながら清潔で美的センスに彩られた彼らの日常生活にすっかり満足して幸福そうに見えることだったという。

著者は付和雷同しやすい等、現在も変わらない個々の性向はあるにしても、それらの総体としての江戸期日本に特有の文明は既に滅びていて、本書の目的はそれを豊富な史料を使って追体験することだという。実際本書の魅力は、日本見聞録から引用された数多くの意外なエピソードだ。例えば、一般庶民の外国人に対する好奇心は度を越していたようで「トージン、バカ」とはやしたり、所かまわず寝室まで覗き見るなど無神経の域に達していたというのには笑った。「まるで体操のように、息をシューシューいわせながら、手を膝から足まで下げるお辞儀を繰り返した後、その姿勢のままで長い口上を早口で述べ合う」という当時の挨拶風景は、まるでイスラム教徒の礼拝のようだ。「来日した西洋人を仰天させた習俗に、公然たる裸体と混浴の習慣があったことは広く知られている」なんて知らなかった。

少し物足りなかったのは、体を動かすよりも声を合わせて歌う時間のほうが長い肉体労働の仕方は欧米ではあり得ないといった類の記述について、この種の感想は市場経済の浸透度の高い社会に属する人間が、それが低い社会を観察した場合に普遍的に感じること(例えば現代の日本人が発展途上国に旅行した際の感覚と同じ)だと思う。日本見聞録に描かれた現象が、前工業化社会なら世界共通して観察できる普遍的な現象なのか、それとも江戸期日本に特殊な現象なのかが、より意識的に分別されていればよかったと思う。
「地域をデザインする―フラードームの窓から見た持続可能な社会(駒宮博男著)」で紹介されているので読んだ。渡辺京二氏は繰返し「私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ(外国人の残した記録を通じて)ひとつの滅んだ(江戸時代後期に完成された)文明の諸相を追体験することにある」と学者らしく述べている。それは確かに正しいのだろうが、私をはじめほとんどの読者は愛惜と追慕を強烈に感じながら追体験し、決してこの文明は滅んではいないのだと密かに思っているはずである。著者の意図には反するのだろうが、そんな読み方でも全く構わないと思わせるような本である。繰返し読み続けたい。」
ずっとずっと、もやもやと疑問に思っていた事が、この本を読んで氷解した。
平成のこの現在、わが国は世界一の借金国となり国家破産寸前の様相である。
外交も国策も何も変革すらされず、事態は悪くなるばかり、なのに・・なのに
国民のこの危機感の無さ、デモひとつ暴動すら起こらぬ平穏さは何だ?
戦後、戦勝国を恨むことを一切せず、尊敬や憧れまで抱き親密に付き合い
敵国を一切想定せずにひたすらに働き汗して平和国家を築いてきた日本。
その本質的根底には渡辺氏の言う失われた「独特の国民性」が脈々と
流れているのではないだろうか?
庶民にすれば「すべてはお上のやった事」または「やってる事」なんではないか?
戦争に負けたのも「お上」破産しそうなのも「お上」我関せずじゃないのか?
この逝ってしまったと思われている愉快で明るい楽園の住人たちは、実は
たいして変わらぬ心情で今もこの国の大半を占めているのではないか?
熊さん八っつぁんの笑いは今も生き続け、寅さんの気楽さは理想とされて
TVの中はお笑いに占領されて、政治家や役人のスキャンダルは庶民の娯楽となり
飲んで歌ってブランド品集めが大好きで、国がどうあれ楽しく生きてりゃ
それで充分!そんな世相は相変わらずのわが国ではないだろうか?
今だ外国人からみれば充分に不思議な国として存在している気がする。
現代日本にずっとずっと違和感を抱きながらも、なんとなく気楽に生きてしまった
自分の中のDNAを再発見させられたような一冊であった。
自分の中にある何か不思議な「正体」が解ったような気がして、うれしくなった。
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